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ケイバとワタシ②「ライスシャワー」

そんなわけで、1995年に競馬界にどっぷりと踏みこんだ。

しかし、そんなインパクトを与えてくれたフジキセキは屈腱炎で即引退。

早くも燃え尽き症候群みたいな状態になっていました。

そこに、僕に最も強いインパクトを与えてくれた悲運の名馬

「ライスシャワー」が登場します。



父リアルシャダイ、母ライラックポイント。

生粋のステイヤーである彼は黒い刺客と呼ばれました。

どちらかというとヒール役。

ミホノブルボンの3冠を阻み、メジロマックイーンの天皇賞3連覇を阻み。

しっかり背後につけていき、最後に差す。

そんなライスシャワーは、1993年の天皇賞春以来勝ち星から遠ざかり、

1994年暮れの有馬記念で3着と復調の兆しを見せていた。

そして1995年、日経賞に圧倒的1番人気で出てきた彼は、

小柄な体には酷な59キロという斤量を背負い、あがいていた。

9頭立ての6着。

誰もがもう終わったと思っていた。

僕も、そういうもんなのかな、くらいに思っていた。

そして1995年4月。

京都競馬場、天皇賞・春。

早々と3角先頭で4角へ。

明らかに往年の力はないが、抜群のコーナーリングで2馬身前へ。

※ここが、彼が京都の申し子と呼ばれたポイント。

京都は4コーナーが下り坂の終点なので、スピードを上げていくと

うまく曲がれない(膨らんでしまう)。

ただ、彼はここをロスなく回るんだな。。。うまかった。特にこのレースは。

外から猛追するステージチャンプを鼻差抑え、見事に優勝。

走り終わった彼は燃え尽きたようにも見えました。

とても、美しかった。素晴らしかった。

実はもう一つ良い話があって、最近は良く優勝した騎手がガッツポーズしたり、

馬の上で立ったり、ジャンプして降りたりしますね。

ライスシャワーの主戦、鞍上の的場均は絶対にそういうことをしなかった。

「人間のエゴで馬に負担をかけたくないから。出来ることならすぐに降りたい」

職人と呼ばれ、馬を愛した的場騎手らしい・・・

僕はこういうストイックなエピソードに心を打たれました。

もちろん、ここから先の話は悲運なので、書くのも憚られます。

しかし、あえて書くと、彼は余生のために次のレースに出走しました。

2,200Mの宝塚記念。

スピード競馬全盛になっていた時代に、

ライスシャワーのような3,000M以上で実績を持っている馬は

種牡馬として大成しない。

せめて2,200MのGIタイトルがあれば、スピード実績を持てる。

人生もそうですが、引退してからの時間は結構長い。

そこを有意義に過ごせるのか、どうなのかは働いている期間の仕事にも

大きく依存するでしょう。

競馬も同じ。

結果を残した馬は種牡馬⇒功労馬として安定した余生を送れるが、

残せなかったり、求められていないような馬には現実的に道はない。

往年の力はもうないが、2,000M台のGIタイトルがなければ安定した余生もない。

何にせよ、最後のチャンスで出走するしかなかったんですね。

結果は、3コーナー手前で左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症。

そのまま予後不良(安楽死処分)となりました。

ライスシャワーが運ばれていく馬運車に向かって、的場騎手は最敬礼で見送った。

僕はこの事件を機に、より競馬についてのめりこむようになりました。

ショッキングではあったのですが、それでやめる、もう見ない、というのは

それこそ彼に申し訳ない、と。

ちなみに、私の実家には未だに「フジキセキ」と「ライスシャワー」の

パネルが飾られています。

彼らを見るとノスタルジックになるとともに、初心に帰れる気がします。

一人前になったら、彼らのパネルを迎えに行こうと思っています。

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