決定論と非決定論:統計学と確率論を考える
あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場。
あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場。
WordPress.comでblogを書き始めて1ヵ月弱。
どうにもこうにも改行がうまくいかない。
2つ以上の改行が無視されたり、全部改行が消えて詰まったり。
おいおい、こっちゃ見やすく書こうと思ってるのに、そんな気持ちを
置き去りかよ、と。
「全角スペース」+「Shift+Enter」
で出来るらしい。
早速試してるけど、どうでしょうか?
何かうまくいかない・・・ということでもう少し調べてみると
1. 「Enter」で改行
2. 左上の「B」を押して太字にする
3.「全角スペース」を挿入
4.「Shift + Enter」で改行
出来た!
そんなわけで、1995年に競馬界にどっぷりと踏みこんだ。
しかし、そんなインパクトを与えてくれたフジキセキは屈腱炎で即引退。
早くも燃え尽き症候群みたいな状態になっていました。
そこに、僕に最も強いインパクトを与えてくれた悲運の名馬
「ライスシャワー」が登場します。
父リアルシャダイ、母ライラックポイント。
生粋のステイヤーである彼は黒い刺客と呼ばれました。
どちらかというとヒール役。
ミホノブルボンの3冠を阻み、メジロマックイーンの天皇賞3連覇を阻み。
しっかり背後につけていき、最後に差す。
そんなライスシャワーは、1993年の天皇賞春以来勝ち星から遠ざかり、
1994年暮れの有馬記念で3着と復調の兆しを見せていた。
そして1995年、日経賞に圧倒的1番人気で出てきた彼は、
小柄な体には酷な59キロという斤量を背負い、あがいていた。
9頭立ての6着。
誰もがもう終わったと思っていた。
僕も、そういうもんなのかな、くらいに思っていた。
そして1995年4月。
京都競馬場、天皇賞・春。
早々と3角先頭で4角へ。
明らかに往年の力はないが、抜群のコーナーリングで2馬身前へ。
※ここが、彼が京都の申し子と呼ばれたポイント。
京都は4コーナーが下り坂の終点なので、スピードを上げていくと
うまく曲がれない(膨らんでしまう)。
ただ、彼はここをロスなく回るんだな。。。うまかった。特にこのレースは。
外から猛追するステージチャンプを鼻差抑え、見事に優勝。
走り終わった彼は燃え尽きたようにも見えました。
とても、美しかった。素晴らしかった。
実はもう一つ良い話があって、最近は良く優勝した騎手がガッツポーズしたり、
馬の上で立ったり、ジャンプして降りたりしますね。
ライスシャワーの主戦、鞍上の的場均は絶対にそういうことをしなかった。
「人間のエゴで馬に負担をかけたくないから。出来ることならすぐに降りたい」
職人と呼ばれ、馬を愛した的場騎手らしい・・・
僕はこういうストイックなエピソードに心を打たれました。
もちろん、ここから先の話は悲運なので、書くのも憚られます。
しかし、あえて書くと、彼は余生のために次のレースに出走しました。
2,200Mの宝塚記念。
スピード競馬全盛になっていた時代に、
ライスシャワーのような3,000M以上で実績を持っている馬は
種牡馬として大成しない。
せめて2,200MのGIタイトルがあれば、スピード実績を持てる。
人生もそうですが、引退してからの時間は結構長い。
そこを有意義に過ごせるのか、どうなのかは働いている期間の仕事にも
大きく依存するでしょう。
競馬も同じ。
結果を残した馬は種牡馬⇒功労馬として安定した余生を送れるが、
残せなかったり、求められていないような馬には現実的に道はない。
往年の力はもうないが、2,000M台のGIタイトルがなければ安定した余生もない。
何にせよ、最後のチャンスで出走するしかなかったんですね。
結果は、3コーナー手前で左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症。
そのまま予後不良(安楽死処分)となりました。
ライスシャワーが運ばれていく馬運車に向かって、的場騎手は最敬礼で見送った。
僕はこの事件を機に、より競馬についてのめりこむようになりました。
ショッキングではあったのですが、それでやめる、もう見ない、というのは
それこそ彼に申し訳ない、と。
ちなみに、私の実家には未だに「フジキセキ」と「ライスシャワー」の
パネルが飾られています。
彼らを見るとノスタルジックになるとともに、初心に帰れる気がします。
一人前になったら、彼らのパネルを迎えに行こうと思っています。
暇か!という突っ込みを受けそうですが、ここ最近一応アクティブであろう
ものも含めて、関連性をまとめてみることにしました。
なんとなーくですが、左側がインプット系、真中がアグリゲート系、右側がアウトプット系。
※evernoteとdropboxはShareという意味では使えず、現時点ではstorage扱い
そして赤い波線枠はflavorsmeで集約してます。
・・・
しっかし、大変なカオスになりました。
そして、良く見るとFriendfeedはアグリゲーターとして機能していない!
twilogとposterousを読めるということで、profilacticを使うようにしてから
ただの垂れ流しfeed祭りと化していました。
twitterって、インプットでもあり、アグリゲーターでもあり、アウトプットでも
あるんですな。なるほど・・・
あくまで個人の利用形態ですので参考にはならないと思いますが、
こうしてまとめてみることで、各サービスの特徴なんてものが見えてくるんじゃないだろうか
と思いましたとさ。
と、tweetしたら、
「まだ新聞を読んでるんですか?」
というReTweetが。
そういうことで言ったわけではなく。
かといって、それを140文字で伝えられるわけもなく、
とりあえず「時と場合によります」と返した。
スマートフォンが増え、PCは小型化し、しまいにゃぁKindleやiPadみたいな
世界になってきている中、
「雑誌、新聞って、もはやいらなくね?」
という議論になるのは当然。
だって、他のデバイスで見れるようになるから。
そっちのほうが便利だから。
でも、先日そんな話をしてたら、後輩がこう言ったんです。
「雑誌・新聞は捨てられるんですよ」
これは結構目からウロコでした。
ネット広告業界に身を置き、最新デジタル動向には気を配り、
色んなwebサービスでiPhoneに集約しながら、という生活を送っている
中で、少しだけ、でも確かに思っていたこと。
“iPhoneに集約するのは便利。でも、iPhoneを持ってないとなんもできなーい”
“(たまに)邪魔。もっと身軽に活動したーい”
※iPhoneだからまだストレスは少ないんだろうけど
確かに雑誌・新聞のコンテンツも見れれば、PCのようにも使えて、
さまざまな活動を集約できて、便利だ。
でも、”捨てられない”んです。
いっつも”持ってなくちゃいけない”んです。
あの、雑誌や新聞を買って、読み終わったらポイっと捨てる感じ。
あの気軽・気楽・身軽な感じが失われました。
MobilePCも最近持ち歩かなくなりました。iPhoneで代替できる部分が
多いというのもありますが、何より、やっぱり多少重いし、時には邪魔。
そう考えると、僕は多分iPhoneが持ち歩く限界。
iPhoneをポケットに入れながら、文庫本読みます。
Kindle、iPadと雑誌・新聞では、そのあたりで「違う部分」があるんですね。
コンテンツだけではない。「紙」である利点。
そういう意味では、ぜんぜん死なないと思うんだ、ということなわけでした。
その2、ということで。
前回書いた、文字の認識について。
iPhoneから色々と(名刺とか)写真を撮って同期するとこんな感じ。
これを貯めてくだけでは、今までのストレージ系と一緒。
ここから「あの喫茶店で撮ったメニューは・・・」ということで
となりました。
ちなみに、こういう感じで認識。
う~ん、ちゃんと認識しておる。
なお、文字認識されるまでにはアップロードから多少時間がかかる模様。
また、アルファベットは手書きでもある程度認識可能だが、
日本語(あるいは漢字)はちょっと弱いみたい。
でも、上記にあった名刺の名前、会社名、部署名などで
検索しても、結構な確度で認識されました。
これ・・・名刺とかメモとか、ホワイトボードとか、全部ぶっこめば、
確かに知的財産を全て入れ込むことができるわけですねー。
目からウロコでした。これが、Evernoteかー。